『死霊館 エンフィールド事件』とは?|実話をもとにした最恐ホラーの続編

2016年に公開された映画『死霊館 エンフィールド事件(The Conjuring 2)』は、ジェームズ・ワン監督による“死霊館ユニバース”の第3作目にあたります。
前作『死霊館(2013)』で全世界を震撼させた心霊研究家エド&ロレイン・ウォーレン夫妻が再び登場し、今回はイギリス・ロンドン郊外で実際に起きたとされる“エンフィールド・ポルターガイスト事件”を題材に描かれています。
この事件は1977年、シングルマザーとその子どもたちが暮らすホジソン家で発生した怪奇現象に端を発します。家具が勝手に動き、子どもが宙に浮き、見えない声が語りかける…。数多くのメディアや心霊研究者が関わったこの現象は、「20世紀最長のポルターガイスト事件」として記録されており、世界中の超常現象ファンを巻き込みました。
映画は、この事件に教会の依頼で関わることになったウォーレン夫妻の視点から展開されますが、ただの“心霊現象の捜査劇”にとどまらず、「信じることの難しさ」や「家族の絆」「信仰の意味」など、深い人間ドラマとしても高く評価されています。
本作の魅力は、“実話ベースのリアルな恐怖”と、“映画的演出による情緒と緊張”の融合にあります。
信じる者が救われるのか、それとも呪いは決して終わらないのか──
観る者の心に静かに問いかけてくる、現代ホラーの傑作といえるでしょう。
あらすじを深掘り|家族を襲う“見えない存在”とウォーレン夫妻の葛藤

物語は、前作『死霊館』でアメリカ・アミティビル事件を調査した後、ウォーレン夫妻が精神的に追い詰められている状況から始まります。特にロレインは、調査中に霊視で「シスター姿の悪魔」と対峙し、その恐ろしいビジョンに囚われ続けていました。
一方、舞台は大西洋を越え、1977年のロンドン・エンフィールドへと移ります。シングルマザーのペギー・ホジソンと4人の子どもたちが暮らす小さな家で、不可解な現象が次々と起こり始めます。家具が勝手に動き、壁を叩く音、そして次女ジャネットの口から語られる“別人格”の声。ついには、警察までもが異常現象の証人となるほどの“実在感”を伴った恐怖が、彼らの日常を壊していきます。
教会の依頼により現地入りしたウォーレン夫妻は、現象を検証しながら、ロレインの“霊視”によってその真実を探ろうとします。しかし、今回の事件はこれまでと異なり、ロレインが霊の存在を感じ取れない──つまり、「本当に霊がいるのかどうか」が曖昧なまま、恐怖だけが加速していくのです。
この“確信が持てない恐怖”が、夫妻の信仰と職業意識を揺るがせます。
しかもエド自身も、ヴァラクの悪夢に苛まれ続けており、「次は自分が死ぬ」という不吉な予感を抱えていました。
この章で描かれるのは、単なる心霊現象ではなく、「信じるべきか、それとも疑うべきか」という二重の葛藤です。
それは、家族を守ろうとするホジソン家の母と姉妹の姿にも、超常現象に向き合うウォーレン夫妻の苦悩にも重なっていきます。
「目に見えないものを信じる」──その勇気が試される物語は、ここから加速度的に深淵へと向かっていくのです。
映画が描いた“信じる力”とは?|疑念と希望が交錯する物語構造

『死霊館 エンフィールド事件』が他の心霊ホラーと一線を画している最大の理由は、「恐怖の根源」が単なる幽霊や悪魔ではなく、“信じることの力”とそれを巡る揺らぎにあることです。
◆ 「超常現象」を信じるか、否か
本作の中心にあるのは、「ホジソン家の怪異は本物か? それとも演技か?」という問いです。
超心理学者アニタ・グレゴリーは冷静に懐疑を示し、調査中にジャネットの“自作自演”を思わせる映像が発見されたことで、教会やマスコミ、協会の間でも疑念が噴出します。
◆ “霊能力者”であるロレインの沈黙
これまで数々の心霊現象に直感的に対応してきたロレイン・ウォーレンも、今回はなぜか霊の気配を感じ取れません。
この“不感”こそが、彼女自身の信仰や夫への思いに陰りをもたらし、「信じていたものが信じられなくなる」という、静かな恐怖が滲み出します。
◆ 信じることが奇跡を起こす
やがてロレインは“ヴァラク”の正体にたどり着き、恐怖の根源を突き止めます。
鍵を握っていたのは、「ヴァラク」という名を知ること=名前で支配すること。そしてそれは、“信じることで光が差す”という、古典的でありながら力強いホラーのメッセージでもあります。
◆ 家族の絆と信念が恐怖を超える
ジャネットが恐怖と孤立に打ちひしがれていくなか、家族は最後まで彼女を「信じようとする」姿勢を崩しません。そしてウォーレン夫妻も、自らの命をかけて彼女を救おうとします。
信じることは、時に脆く、時に力強い。
この映画が描いた“信じる力”とは、ただの宗教的信仰や霊感の話ではなく、人が人を想う気持ちに宿る本当の強さだったのです。
映像美と恐怖演出の進化|ジェームズ・ワン監督のこだわり

『死霊館 エンフィールド事件』を語るうえで欠かせないのが、ジェームズ・ワン監督の映像表現への徹底したこだわりです。
単なるジャンプスケアや暗闇の中の影では終わらない、“心理に訴える恐怖”がこの映画の深度を生み出しています。
◆ 恐怖は「見せずに見せる」
ワン監督が得意とするのは、“何も起きない時間”の緊張感の演出です。
長回しやロングショット、カメラのスローなパン移動によって、観客は常に「何かが起こるのではないか」という不安に包まれます。
特に印象的なのは、ジャネットがベッドの上で声を発するシーン。彼女の背後に何かが“いる”ような気配はあるのに、決してはっきりとは映らない。
この曖昧さこそが、視覚的な恐怖を最大化しているのです。
◆ カメラの“視点”が観客の意識を操る
カメラはしばしば子どもの目線に落とされ、狭い空間や視界の死角から不意に現れる存在感を演出します。
また、家の内部を俯瞰したようなワンカットで描く“ぐるりと回る視点”は、空間の歪みを視覚的に表現し、「家そのものが生きている」という印象を与えます。
◆ 音響と沈黙のコントラスト
“音の恐怖”もまた、ジェームズ・ワンの代名詞。
床のきしみ、ラジオのノイズ、階下からの声──すべてが絶妙なタイミングで挿入され、静寂との落差が恐怖を増幅させます。
一方で、“音が一切ない”時間が続く場面では、観客の鼓動さえBGMになったかのような錯覚を覚えるでしょう。
◆ 恐怖を美しく見せるライティングと美術
“恐怖の造形”にも妥協はありません。
青みがかった陰影、蝋燭の揺らぎ、雨に濡れたガラス越しの影…。
まるでゴシックアートのような映像世界が、現実と非現実の境界線を曖昧にし、観る者を“夢とも悪夢ともつかない世界”へと引きずり込みます。
ホラーでありながら、「目が離せないほど美しい」と評されるその画作り。
ジェームズ・ワンは、本作を通して“恐怖とは芸術である”という信念を見事に証明してみせました。
評価と反響|なぜ『死霊館 エンフィールド事件』は高く評価されたのか

『死霊館 エンフィールド事件』は、前作『死霊館』の成功を引き継ぐだけでなく、その恐怖の質と物語の深さをさらに進化させた作品として高い評価を獲得しました。
その反響は、観客のみならず映画批評家の間でも広がり、「ホラー映画であること」を超えた“語られるべき映画”としての位置づけを確立しています。
◆ 海外レビューサイトでの高スコア
- Rotten Tomatoes(ロッテントマト)では80%以上の批評家スコアを記録し、観客スコアも90%近い満足度を維持。
- Metacriticでも比較的高評価を受けており、ホラーというジャンルが不利になりがちなプラットフォームでも成功を収めました。
特に高く評価されたのは以下の点
- 実話に基づく説得力のある恐怖
- ウォーレン夫妻の人間ドラマとしての深み
- ジェームズ・ワンの洗練された演出と映像美
◆ 日本国内での支持と共感
日本のホラー映画ファンにとって、本作の「家族を襲う呪い」や「子どもを守る親の苦悩」というテーマは、心の奥に深く突き刺さるものがあります。
また、実話ベースの設定が“本当にあったかもしれない”という臨場感を与え、特に女性層や大人の観客からの支持も高く、SNSやブログレビューでも好意的な声が多く見られました。
◆ シリーズ内での位置づけと評価の高さ
『死霊館 エンフィールド事件』は、死霊館ユニバースの中でも最もバランスの取れた作品との呼び声が高く、恐怖・物語・映像・キャラクターが絶妙に噛み合った「完成度の高さ」が支持を集めています。
- 『アナベル』などのスピンオフ作品よりも“格上”と評価される理由は、やはりエド&ロレインの存在が物語に芯を与えていることにあります。
◆ ファンの心に残る“感情の余韻”
本作の魅力は、観終えたあとに残る「怖かった」以上の感情──
それは、“信じること”や“愛する人を守ること”への再認識であり、ホラー映画でありながらもヒューマンドラマとして心に響く体験をもたらしてくれます。
「本当に怖いけど、なぜか心が温かくなる」
そんな感想が寄せられるホラー映画は、決して多くありません。
だからこそ『死霊館 エンフィールド事件』は、単なるジャンル映画を超え、“忘れがたい体験”として記憶に刻まれる一作となったのです。
「呪いは終わらない」の意味|死霊館ユニバースが提示する恐怖の本質

『死霊館 エンフィールド事件』を締めくくるように残される印象的な余韻──
それが、“呪いは終わらない”というメッセージです。
この言葉は、物語の中だけでなく、シリーズ全体を貫く主題として私たちに深く突き刺さります。
◆ 終わったはずの事件に潜む「見えない続き」
ホジソン家の事件は表面的には収束しますが、観客には不穏な“残響”が残されます。
悪霊ヴァラクの存在、ロレインの霊視、そして名前を得たことによる一時的な退却──
それは決して「解決」ではなく、一時の静寂にすぎないということを映画は示しています。
◆ “信じること”の代償と試練
ウォーレン夫妻がこの戦いに身を投じ続けるのは、“信じる者”としての使命感ゆえ。
けれど、信じることには痛みも伴う。愛する者を危険にさらすこと、真実が理解されないこと、そして自らの命すら代償に差し出す覚悟が常に必要です。
◆ 死霊館ユニバースに共通する「終わらぬ恐怖」
本作を起点に広がっていく死霊館ユニバース──
『アナベル』『ラ・ヨローナ』『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』といった作品群すべてに共通するのが、“恐怖の継承”です。
呪いは家を移り、人から人へと形を変え、時代や地域を超えて拡散していく。
それは、「死霊館」という名のもとに構築された、恐怖のネットワークとも言えるのです。
◆ なぜ“終わらない恐怖”は人を惹きつけるのか?
人は「終わりのないもの」に本能的な恐れと魅了を感じます。
それは永遠に消えない影であり、いつか自分にも降りかかるかもしれない予感でもあります。
“呪いは終わらない”という言葉には、ホラー映画の核心=「見えないものと共に生きる私たちの不安」が込められています。
本作は、恐怖そのものに形を与えた映画であると同時に、「信じたその先に何があるのか?」という哲学的な問いを投げかけてきます。
“終わらない”のは呪いだけではない。信じ続ける心もまた、終わらないのだ──。
まとめ|恐怖の先にある“人間の物語”としての価値

『死霊館 エンフィールド事件』は、単なる「実話ベースのホラー映画」ではありません。
そこに描かれているのは、恐怖とともに生きる人間たちの葛藤と絆、そして信じることの意味を巡る、普遍的な人間ドラマなのです。
◆ 恐怖は“心”を映す鏡である
悪霊、呪い、ポルターガイスト…。
それらは決してただのオカルト要素ではなく、人の不安や孤独、傷つきやすさの象徴として存在しています。
ジャネットの叫び、ロレインの祈り、エドの勇気──
それらはすべて、「見えない何か」と戦う、人間の心の営みの表れなのです。
◆ “信じること”が世界を変える
この物語の中心には、「信じるか、疑うか」という選択が繰り返し現れます。
家族を信じる。霊の存在を信じる。そして何より、“自分の中の声”を信じる。
その選択が、やがて命を救い、呪いを断ち切る鍵となる──
恐怖に打ち勝つ唯一の力こそ、信じる心なのだと、本作は教えてくれます。
◆ ホラーを超えて、心に残る作品へ
“怖い映画”は数あれど、“感動するホラー”はそう多くはありません。
『死霊館 エンフィールド事件』が多くの人の心に残った理由は、その恐怖の裏に「人間の温もり」があるからです。
夜が明ければ、また日常が始まる。
けれどその夜に、何を信じ、どう戦ったかによって、人は変わることができる──。
『死霊館 エンフィールド事件』が描いたのは、
「恐怖に支配されること」ではなく、「恐怖と共に生き抜く強さ」でした。
それこそが、この作品が今も語り継がれ、“人間の物語”として胸を打つ理由なのです。









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