【導入】地獄の扉が開かれた瞬間──“0作目”に込められた意味とは?

それは、“原点”にして“異端”。
1973年に世界を震撼させた映画『エクソシスト』。
その伝説の物語が遡ること半世紀──“エクソシスト神話”の始まりを描いたのが、第4作『エクソシスト ビギニング』である。
この作品は、シリーズの中でも特異な立ち位置にある。
時系列でいえば最も古く、エピソード0にあたるが、製作過程は混迷を極め、2つの異なるバージョン(レニー・ハーリン版とシュレイダー版)が存在するという“二重構造”を持つ、まさに“呪われた映画”だ。
舞台はアフリカ。
神への信仰を失った元神父・ランカスター・メリンが、封印された邪悪と対峙する姿を通じて、本作は“信仰の再生”というテーマに踏み込んでいく。
「なぜ神は沈黙するのか?」
「悪に立ち向かうとはどういうことか?」
――これは、ただの悪魔祓いの前日譚ではない。
人間が絶望の中で信仰を取り戻すまでの、静かなる叙事詩である。
本記事では、そんな『エクソシスト ビギニング』が描いた信仰と恐怖の交差点を深掘りし、“0作目”に込められた真の意味に迫っていく。
【第1章】映画『エクソシスト ビギニング』のあらすじと登場人物

◆あらすじ|信仰を失った男が、再び“神”と向き合う時
舞台は1949年、第二次世界大戦直後のアフリカ・ケニア。
長い戦争で心に深い傷を負い、神への信仰を捨てた元神父ランカスター・メリンは、考古学者として砂漠をさまよっていた。ある日、ビザンチン帝国時代の聖堂跡を発掘する調査隊に加わることになり、彼は不穏な“封印”の存在に触れていく。
聖堂の地下から現れたのは、古代の魔神パズズの像。
それを機に、村では自殺、殺人、動物の異常行動といった怪奇現象が相次ぎ、人々の心に“邪悪”が入り込んでいく。
誰が“悪”に取り憑かれているのか?
なぜ、この場所に神聖な聖堂と悪魔像が共存していたのか?
メリンは再び神父としての自らを取り戻し、信仰と恐怖の狭間で、かつてない“悪”と対峙する。
その戦いこそ、のちに『エクソシスト』で描かれる悪魔との最初の戦い──“すべての始まり”が、ここにある。
◆主要登場人物|悪と対峙する者たち
◼️ランカスター・メリン神父(ステラン・スカルスガルド)
物語の主人公。元神父にして考古学者。戦争によって信仰を失っていたが、アフリカでの“地獄のような体験”を通して再び神と向き合っていく。
彼の内面の葛藤と成長が、本作の根幹をなす。
◼️フランシス神父(ジェームズ・ダーシー)
バチカンから派遣された若き神父。メリンとは対照的に、強い信仰心を持ち、純粋で真面目な姿勢で事態に立ち向かう。だが、彼もまた恐怖と絶望に試されていく。
◼️サラ・ノヴァック博士(イザベラ・スコルプコ)
発掘隊に参加する女医。心にトラウマを抱えながらも、人々の命を救おうとする医師としての使命感を持つ。
物語の中盤以降、彼女にまつわる展開が“悪魔憑き”の鍵となる。
◼️ジョセフ(レミー・スウィーニー)
地元の少年。純真で無垢な存在として描かれるが、彼をめぐる描写は物語全体に深い影を落とす。
“悪”とは何か、“無垢”とは本当に無垢なのか──観る者に問いかける存在。
◼️チューマ(アンドリュー・フレンチ)
発掘隊に協力する現地の案内人。村の風習や精霊信仰を通じて、“科学では解明できない領域”の存在をメリンたちに突きつける。
◼️グランヴィル少佐(ジュリアン・ワダム)
駐留英軍の軍人。状況を軍事的に制御しようとするが、理性では抗えない“闇”の力に次第に飲み込まれていく。
この物語に登場する人物たちは、単なる“悪魔祓い”の道具ではない。
それぞれが「信じるとは何か」「正しさとは何か」を問いながら、悪と対峙する“人間の苦悩”を体現している。
【第2章】封印された“邪悪”の復活──パズズ像の意味と象徴

◆なぜ“聖なる聖堂”に悪魔が祀られていたのか?
映画『エクソシスト ビギニング』の中核にあるのは、発掘現場から姿を現す「パズズの像」である。
ビザンチン帝国時代の聖堂の地下に封印されていたそれは、ただの彫像ではなく、「信仰の暗黒面」そのものを象徴している。
この構図は非常に示唆的だ。
聖と邪が共存し、神に仕える場所にこそ悪が封じられていたという事実は、「信仰とは純粋なものではない」「神の側にすら、闇がある」という宗教的パラドックスを突きつけてくる。
◆パズズとは何者か?その正体と歴史的背景
パズズ(Pazuzu)は、メソポタミア神話に登場する風の悪霊であり、本来は疫病や災厄をもたらす存在として知られている。
しかし一方で、“他の悪霊から守ってくれる”側面もあるという、非常に二面的な性格を持つ存在だ。
シリーズ第1作『エクソシスト』でも、パズズは少女リーガンに憑依する悪魔として登場しているが、その起源は本作『ビギニング』で明かされることになる。
つまりこの像の発見は、シリーズ全体に通じる“悪の起源”への接触であり、すべての恐怖はここから始まっていたのだ。
◆パズズ像が引き起こす“内なる悪”の目覚め
本作における恐怖の本質は、「誰が悪魔に取り憑かれているのか」というスリラー的な構造だけではない。
パズズ像の登場を契機に、村人たちの中に次第に“邪悪な感情”が芽生え始める──
自殺、殺人、裏切り、暴力…すべてが人の心の闇から発現する形で描かれている。
つまり、パズズとは単なる“外部の悪”ではなく、信仰を失った人間の心に呼応して現れる“内なる悪”の象徴なのだ。
そして、信仰を放棄したメリン神父こそ、その最初の“標的”だったと言える。
◆“発掘”=信仰の深層を掘り起こす行為
考古学的な「発掘」という行為は、物理的に地層を掘り返す行為であると同時に、精神的・宗教的な深層心理を暴く行為としても描かれている。
パズズ像の出現は、ただのオカルト的恐怖ではなく、「人間の心の底にあるもの」を掘り返した瞬間でもあるのだ。
そしてその“発掘”は、神を忘れた者たちへの試練を呼び寄せる──
メリンは、まさにその“選ばれし者”だったのである。
【第3章】“二つのビギニング”──レニー・ハーリン版とドミニオン版の違い

◆“同じ脚本”から生まれた“まったく別の映画”
『エクソシスト ビギニング』は、ハリウッドでも非常に稀な例を残している──
「一つの物語に対して、二本の異なる映画が制作・公開された」という歴史的な事実だ。
最初に撮影されたのは、ポール・シュレイダー監督によるバージョン。
しかしスタジオ側はその仕上がりを「地味すぎる」「怖さが足りない」と判断し、ほぼ全編をレニー・ハーリン監督によって再撮影させた。
こうして2本の“ビギニング”が生まれたのである。
それが以下の2作だ。
- 『エクソシスト ビギニング』(2004年)
▶ レニー・ハーリン版(劇場公開版) - 『ドミニオン/エクソシスト ビギニング』(2005年)
▶ シュレイダー版(後に限定公開・DVD発売)
◆レニー・ハーリン版|派手な恐怖演出とエンタメ性
ハーリン版は、アクション映画やスリラーを得意とする監督らしく、ビジュアルでの恐怖体験を重視している。
- 悪魔の姿が明確に描写される
- ジャンプスケアや血みどろの演出が多い
- “悪に堕ちるキャラクター”が明快で、娯楽作品としてのテンポが良い
メリン神父の心の葛藤や内面描写よりも、視覚的な衝撃やテンションの高い展開が優先されており、観客に“わかりやすい恐怖”を提供する作りとなっている。
◆シュレイダー版(ドミニオン)|静かなる信仰と内省のホラー
対してシュレイダー版『ドミニオン』は、信仰の再生と倫理的な葛藤に焦点を当てた、静謐で哲学的な映画だ。
- 悪魔の描写はあえて控えめに
- 宗教的な問いと対話に重きを置く
- 恐怖よりも“魂の再生”がテーマ
まるでベルイマン映画のような内省的ホラーとも言われ、ジャンル映画としては異例の静かさを湛えている。
スタジオが“恐怖が足りない”と感じたのも無理はないが、一部のファンからは「真の『エクソシスト』精神はこっちにある」と称賛されることも多い。
◆“二つのビギニング”から見える、ホラー映画の本質とは?
この“二重構造”の事例は、私たちにある問いを突きつける。
「ホラー映画において、真に恐ろしいものとは何か?」
- 視覚的にショックを与える“スプラッター的恐怖”か?
- それとも、心の奥底を揺さぶる“信仰の喪失と再生”か?
レニー・ハーリン版は“観客の悲鳴”を、ポール・シュレイダー版は“観客の沈黙”を引き出す作品なのだ。
【第4章】“信じること”が生む強さ──メリン神父の内的変化と“信仰の原点”

◆信仰を捨てた神父──“過去”に囚われたメリン
ランカスター・メリン。
『エクソシスト』シリーズの象徴的存在である彼は、かつて神に仕える身だった。
しかし本作『ビギニング』での彼は、すでに信仰を捨てた男として描かれている。
第二次世界大戦中、ナチス占領下のオランダでの凄惨な出来事──
自らの意思で無実の人間を死に追いやらざるを得なかった体験は、彼の魂に深い爪痕を残した。
「神はなぜ、あの場に現れなかったのか?」
その問いに答えを得られぬまま、彼は神から背を向け、考古学という“物質的世界”に身を預ける。
メリンの旅は、過去の罪と向き合う“贖罪の巡礼”でもあったのだ。
◆悪魔の前で問われる、“信仰の不在”
パズズの出現とともに、村は混乱に陥っていく。
死、狂気、恐怖。
だがメリンは、それを前にしてもなお“神の沈黙”を感じ続けていた。
彼は神父であるにもかかわらず、祈ることを拒み、儀式を避ける。
その姿は、まさに「信仰を失った者が悪と出会ったときの姿」であり、観客自身に問いを投げかける構造にもなっている。
- 「信じられない者は、悪にどう立ち向かうのか?」
- 「神の存在を疑いながら、それでも祈ることに意味はあるのか?」
◆地下聖堂での対決──“祈り”が導く再生の瞬間
物語終盤、メリンは地下聖堂で悪魔と対峙する。
それはパズズとの戦いであると同時に、自身の罪と信仰との戦いでもある。
血と泥に塗れたその空間で、彼はついに十字を切り、祈りを口にする。
「信じること」によって、彼の言葉が“力”を持ち始めるのだ。
この瞬間こそ、『ビギニング』が伝えたかった本質──
信仰とは奇跡を願うことではなく、恐怖と共に立ち上がる“意志”そのものである、というメッセージが凝縮されている。
◆信仰の原点とは、“恐怖の中に灯る希望”
“信じる”とは、盲目的に従うことではない。
メリンはそれを知っている。
彼は恐れ、葛藤し、問い続け、それでも最後には信じることを選んだ。
それはまるで、観客一人ひとりの中にある“迷い”や“不安”と呼応するように。
だからこそ『エクソシスト ビギニング』は、恐怖映画でありながら、魂を揺さぶる“再生の物語”でもあるのだ。
【第5章】評価と再考|なぜ『エクソシスト ビギニング』は再評価され始めているのか?

◆公開当時の評価──「ラジー賞候補」という屈辱
2004年に公開された『エクソシスト ビギニング』は、決して華々しいスタートを切ったわけではなかった。
過度なアクション要素、物語の重厚さに対する軽視、そしてシリーズの神聖さを汚したという声……
結果、第25回ゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で「最低監督賞」「最低リメイクおよび続編賞」にノミネートという不名誉な評価を受ける。
観客と批評家の多くが、オリジナルの静謐かつ圧倒的な宗教的恐怖と比べて、“ハリウッド的エンタメホラー”に堕したと見なしたのだ。
◆“二つのビギニング”が示した、ホラーの多様性
だが、その一方で“対となる存在”として世に出た『ドミニオン』の存在が、皮肉にも『ビギニング』の輪郭をくっきりと際立たせることになる。
- ハーリン版は外的恐怖を強調し、映像的な快楽を提供する
- シュレイダー版は内的恐怖と静かな問いかけを中心に据える
この2作を見比べることで、観客はあらためて『ビギニング』に込められた“恐怖の型”を理解し始めたのだ。
「派手さ」の裏にある“信仰の再生”というテーマ。
その重層性に気づいた者たちが、徐々にこの作品を「語るに値する映画」へと押し上げていく。
◆現代の視点がもたらした“再評価”の視線
近年、ホラー映画の多様性と宗教性への注目が高まりつつある。
『ミッドサマー』『セイント・モード』『ヘレディタリー』といった近代ホラー作品では、恐怖の本質として“宗教的な断絶”や“信仰の試練”が描かれている。
それと重なるように、『ビギニング』のテーマ──
「神を失った者が再び祈るに至るまで」という物語が、現代の不安定な世界においてリアルな響きを持ち始めたのだ。
SNSや配信サービスによって再視聴される機会が増えたことも、再評価の一因となっている。
◆“評価されなかった傑作”は、時を超えて語られる
芸術作品において、初動の評価は必ずしもその本質を語りきれない。
『ブレードランナー』がそうであったように、
『シャイニング』がそうであったように、
『エクソシスト ビギニング』もまた、「再評価されるべき運命」を持っていたと言えるだろう。
それは、あのパズズ像が静かに眠っていたように、
時が来るまで“語られるべき意味”が封印されていたからに他ならない。
【まとめ】闇を前にしてなお祈る──『ビギニング』が私たちに問いかけるもの

“信仰”とは、決して万能な光ではない。
それは時に失われ、疑われ、そして拒絶される。
しかし、それでもなお祈ろうとする心――それこそが、『エクソシスト ビギニング』が描いた“本当の強さ”ではないだろうか。
この作品は、恐怖映画の皮をまといながら、
じつは「人がいかにして再び信じるに至るのか」という、深く、静かな魂の叙事詩である。
・メリン神父が歩んだ、贖罪と再生の旅。
・悪魔パズズが象徴する、内なる闇と対峙する勇気。
・“二つのビギニング”が示した、恐怖の多様性と表現の選択。
どれもが、私たちに「信じることの意味」を問いかけてくる。
『ビギニング』はシリーズの“前日譚”にして、現代人の心にこそ響く、“今観るべきホラー”なのだ。
かつて酷評されたこの映画は、時を経て、今ようやくその真価を発揮し始めている。
だからこそ、今こそ問いたい。
あなたは、“闇”を前にしても、なお祈ることができますか?
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