イントロダクション|なぜ今、『Chime』なのか?

現代社会において、“静かな恐怖”を描く作品はますます求められています。
その中で、黒沢清監督の新作『Chime』は、配信プラットフォーム「Roadstead」から誕生した異色の中編ホラーとして注目を集めています。
ジャンルはホラーでありながら、グロテスクな描写や過度な演出は一切ありません。
じわじわと侵食してくる異常、そして見えない“気配”の不穏さ──
それはまさに、黒沢清がこれまで培ってきた映像表現の真骨頂です。
では、『Chime』がなぜ今の時代に求められるのか。
その理由を、まずは本作の成り立ちから紐解いていきましょう。
黒沢清×Roadsteadの“中編ホラー”という挑戦
2024年4月、配信プラットフォーム「Roadstead」が立ち上げたオリジナル作品第1弾として、『Chime』はリリースされました。
そして同年8月には、東京・ミニシアター「Stanger」で劇場上映もスタート。デジタルと劇場、両方の観客に向けて届けられる作品となったのです。
本作の特徴はなんといっても、45分という“中編”尺。
一般的な映画の90分や120分とは異なり、この短さが逆に恐怖の密度を極限まで高める装置として機能しています。
黒沢清監督は、これまでにも『回路』や『CURE』『ドッペルゲンガー』などで、日常に潜む不穏な感覚を映像で表現してきました。
『Chime』ではその技術を、より洗練された“凝縮形”として提示しています。
配信時代におけるホラーの在り方、そして中編という新たな語りのフォーマット。
『Chime』は、黒沢清監督にとっても、Roadsteadにとっても映像表現の実験場であり、革新でもあるのです。
「音」が呼び覚ます不安——ポスト『回路』時代の再来
本作の恐怖の発端は、とてもシンプルです。
「チャイムの音」。それだけ。
だがその“音”が、次第に観る者の感覚を狂わせていく。
それはまるで、かつて黒沢清が2001年に世に放った名作『回路』を思い起こさせます。
『回路』では、ネットワークを通じて広がる“死”の気配が、都市そのものを蝕んでいきました。
そして『Chime』では、日常に紛れる“音”が異常の入り口となるのです。
登場人物・田代一郎が語る「誰かがメッセージを送ってきている」という台詞。
そして「自分の脳の半分は機械に置き換えられている」という異常な告白。
これらの要素が重なっていくうちに、主人公・松岡卓司の世界はゆっくりと、しかし確実に壊れていきます。
音という“見えない恐怖”のトリガー。
それは今、スマートフォンの通知音や目に見えない通信に囲まれて生きる私たちにとって、他人事ではありません。
『Chime』は、“音”の持つ記号性と、そこに宿る不安を最大限に活かした、現代ホラーの新たな原点なのです。
あらすじと登場人物|“静かな侵食”はどこから始まったのか?

人は、日常の中にひそむ「異常」にどのタイミングで気づくのでしょうか。
黒沢清監督が描く『Chime』では、そのきっかけはとてもささやか──“チャイムの音”でした。
主人公・松岡卓司が過ごす穏やかな日常に、ひとつの違和感が侵入する。
やがてそれは、静かに、しかし確実に彼の現実をむしばんでいくことになります。
ここでは、その“異変”がどのようにして始まり、どのような人物たちが関わっていくのかを見ていきましょう。
主人公・松岡卓司と田代一郎が出会うとき
物語の舞台は、都内の料理教室。
講師を務める松岡卓司(演:佐野和真)は、生徒たちに料理を教えながら平穏な日々を送っていました。
その日常に風穴をあけたのが、田代一郎(演:飯田基祐)という中年男性の生徒です。
彼はある日、教室の最中にこう語り始めます。
「最近、どこからかチャイムの音が聞こえてきてね。誰かがメッセージを送ってきているんだ。」
この奇妙な発言に、生徒やスタッフは戸惑います。
事務員の間では「変わった人」とされていた田代ですが、松岡は気にせず、あくまで礼儀正しく接していました。
しかしそれが、後戻りのできない境界線を越える第一歩だったのです。
「チャイムの音」が告げる、現実のほころび
数日後、同じ教室で再び田代が異変を口にします。
「自分の脳の半分は、機械に置き換えられているんだ。」
しかも彼は、それを証明しようとして驚くべき行動に出ます。
その瞬間、松岡の目の前にあった“当たり前の日常”が、静かに軋みを上げ始めるのです。
この“チャイムの音”は、ただの効果音ではありません。
それは現実の隙間を知らせるサインであり、観る者に向けられた“警告”でもあるのです。
チャイムの音が鳴るたびに、松岡の世界は少しずつ壊れていく。
それは、観客にとっても「いま自分が立っている地面が本当に安全なのか?」と問いかけるような、深い不安を呼び起こします。
作品考察|『Chime』が描く“崩壊する日常”と脳の境界線

黒沢清監督が本作『Chime』で描いているのは、目に見える恐怖ではなく、「精神」と「現実」の境界があいまいになる恐怖です。
作品の中心には、“チャイム”という音をきっかけに、日常が徐々にゆがみ始める男の物語が据えられています。
そのきっかけとなるのが、田代一郎という人物の異様な言葉と行動。
一見して妄言にしか聞こえない彼の発言の裏には、黒沢作品らしい「不安の根源」への問いが潜んでいるのです。
半分は機械、半分は人間——田代の言葉の真意とは?
「自分の脳の半分は、もう機械に置き換えられているんです。」
田代のこの台詞は、ただの狂言ではなく、テクノロジーが人間の思考と融合していく未来を暗示しているかのようです。
実際に、現代社会ではAIやブレイン・マシン・インターフェースの研究が進み、“脳の一部を外部装置と接続する”技術はもはやSFではありません。
黒沢清監督はこの設定を、ただのスリラーとして描くのではなく、「人間性とは何か」「自我とは何か」という問いに結びつけています。
田代の言葉は、観る者にこう問いかけているのです。
あなたは、あなたの“意識”がどこにあるか、本当に分かっていますか?
こうした哲学的テーマを、たった45分の中でにじませる手腕こそ、黒沢清監督の真骨頂といえるでしょう。
料理教室という“安全地帯”が狂気に染まる瞬間
『Chime』の舞台は、ごく普通の料理教室。
明るいキッチン、談笑する生徒たち、美味しそうな香り──一見すると、そこに“狂気”など入り込む余地はないように見えます。
しかし、まさにこの“安全地帯”が侵されていく様子こそが、本作の恐怖の本質なのです。
最初は違和感。
次に、不信。
そして、信じていた空間そのものが、“何か”に支配されていたと気づく瞬間。
このプロセスは、『回路』や『CURE』でも繰り返されてきた黒沢演出の定番であり、観客に“自分の居場所すら信じられなくなる感覚”を植えつけます。
『Chime』では、この料理教室がまさに“狂気を導く儀式の場”と化していくのです。
日常という仮面を被った空間の中で、正気を試される松岡。
そしてその背後に、静かに鳴り響くチャイムの音──。
黒沢清が仕掛けたこの“静かな侵食”は、観る者の感覚を深く揺さぶるに違いありません。
黒沢清監督の美学|“静けさ”の中に潜む恐怖

ホラー映画というと、多くの人が血や絶叫、ジャンプスケアを連想するかもしれません。
しかし黒沢清監督の作品は、その対極を行きます。
“静けさ”の中に、目には見えない恐怖を潜ませる演出こそが、彼の美学なのです。
『Chime』も例外ではありません。
わずかな異音、無音の余白、淡々とした会話の中に、どこか不穏な空気が漂う──
それは、黒沢作品を愛する観客にとって、まさに“待っていました”という世界観です。
『CURE』『回路』『ドッペルゲンガー』との系譜
『Chime』の背後には、明らかに黒沢監督がこれまで手がけてきた作品群の影が見え隠れします。
- 『CURE』(1997年):連続殺人事件と催眠暗示を通じて、“他者の意識”が入り込む恐怖を描いた作品。『Chime』の田代の存在もまた、“他者の侵入”を感じさせます。
- 『回路』(2001年):インターネットという不可視の領域から、死が侵食してくる現代的ホラー。その“日常に忍び寄る死の気配”は、『Chime』の“音”に置き換えられたように感じられます。
- 『ドッペルゲンガー』(2003年):自分そっくりの存在が現れることで、アイデンティティが崩れていくスリラー。『Chime』においても、脳が機械に置き換えられるという発言から“自己喪失”のテーマが見えます。
これらの作品が共通して持っているのは、「人間の境界がゆらぐ瞬間」を丹念に描いているという点。
『Chime』はその延長線上にありながら、よりコンパクトかつ濃密に、黒沢清らしさが凝縮された一作と言えるでしょう。
音響と間、カメラワークによる“見えない恐怖”の演出
黒沢清監督の真骨頂は、「見えないものを見せる演出」にあります。
『Chime』でも、恐怖は決して“姿”を現しません。
その代わりに使われるのが、「音」と「間(ま)」、そして“静止”を強調するような長回しのカメラワークです。
- 音響:チャイムのような音が響くだけで、空気が張り詰める。観客の耳と心に“異変”を残す。
- 間:台詞と台詞のあいだにある無音の時間。その沈黙が、次に何が起こるのかという不安をじわじわと膨らませる。
- カメラ:動きの少ない引きの画、定点撮影、左右対称の構図。観る者の“受動性”を強制し、不安を固定化させていく。
『Chime』は、視覚・聴覚の“余白”を最大限に活かすことで、観る者の内側にある恐怖を引き出す映画なのです。
視聴方法・上映情報|『Chime』はどこで観られる?

映画『Chime』は、ただ観るだけの作品ではありません。
“体験するホラー”として、配信と劇場の両面で展開されている点にこそ、その価値があります。
ここでは、『Chime』の視聴方法や上映情報、そしてその“濃密な45分”をどのように味わうべきかをご紹介します。
配信はRoadsteadで、劇場はStangerで体験できる
『Chime』は、2024年4月12日より、動画配信プラットフォーム「Roadstead(ロードステッド)」にてデジタル販売がスタートしました。
インディペンデント作品や短編、中編映画を多く取り扱うこのプラットフォームにおいて、『Chime』は記念すべきオリジナル第1弾作品となっています。
さらに、2024年8月2日からは、東京・渋谷のミニシアター「Stanger(ストレンジャー)」にて劇場公開もスタート。
このデジタル×劇場のハイブリッド展開により、観る環境に応じて異なる恐怖体験が味わえるのが本作の魅力です。
- 配信:Roadstead公式サイト(https://roadstead.io/chime/)にて購入・視聴可能
- 劇場:Stanger(東京都渋谷区)にて期間限定上映中 ※上映スケジュールは公式サイト参照
“どこで観るか”によって、感じ方が変わる。
それこそが『Chime』が仕掛けた、もう一つの視覚的トリックなのです。
45分という“濃密な余白”をどう味わうか
『Chime』の上映時間は、わずか45分。
しかしその短さを侮ってはいけません。
むしろ、この45分こそが極限まで洗練された“密度と余白のバランス”を成立させているのです。
黒沢清監督が得意とする静かなカメラワークと、言葉にならない空気の振動。
それらがこの限られた時間の中で、観る者の内面を鋭くえぐっていきます。
「なんだったんだろう、あの音は……」
観終わったあとに、ふと頭の中でリフレインする“チャイム”の響き。
それは、あたかも現実世界にまで映画の“残響”が侵食してきたかのような感覚を生み出します。
この45分をどう受け止めるか。
それはあなた自身の感受性に委ねられているのです。
まとめ|『Chime』は“壊れゆく世界”への静かな警鐘

『Chime』は、ホラーという枠を越えて、現代社会に対する“問いかけ”そのものといえる作品です。
たった45分の中に、黒沢清監督は“静けさ”と“違和感”という最小限の素材を用い、観る者の心をじわじわと侵食していく恐怖を描き出しました。
そして本作が私たちに突きつけてくるのは、「本当に壊れているのは何なのか?」という根源的な問いです。
登場人物たちが崩れていくように、私たち自身の“日常”も、すでにどこか歪み始めているのかもしれません。
黒沢清が鳴らした、観る者への警告とは?
かつて『CURE』や『回路』で「見えない何かが、静かに人を壊していく」というテーマを提示してきた黒沢清監督。
『Chime』でもその姿勢は一貫しており、言葉にならない不安や、理屈では説明できない異常の気配を徹底的に映像化しています。
チャイムの音、無言の教室、異常を語る人物……
すべてが観客に向けて発せられた“警告”のサインです。
「おかしい」と思った瞬間には、もう取り返しがつかない。
それが『Chime』が描く世界のルールであり、現実の私たちにも突きつけられている“真実”なのです。
「音」から始まる恐怖体験を、あなたは受け止められるか?
『Chime』の恐怖は、決して派手ではありません。
けれども、それは観終わったあとにもじっと耳元に残り続けるような、静かな余韻を持っています。
チャイムの音が鳴るとき、
あなたはそれが「ただの音」だと、信じきれるでしょうか?
何気ない日常にこそ、異常が紛れ込む。
黒沢清が私たちに訴えるのは、まさに“静かな崩壊”の始まりを見逃すな、ということなのです。
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